住職のプチ法話
(『浄安寺報』バックナンバーより)
合掌って何だろう?
私が初めて行った外国は、お釈迦様が生まれ、世界一高い山、エベレストのそびえるネパールです。その国を一人旅したとき色いろなことを考えさせられました。
ネパール行きの飛行機に乗り込むと、機内には、すでにカレーのにおいが充満しています。その中でサリーという民族衣装を着た客室乗務員が合掌をして「ナマステー」と出迎えてくれました。合掌は仏さまへの礼拝としてしか考えていない私はドキッとしました。そして、ネパールに到着してからも沢山のカルチャーショックがありました。
まず食事です。ネパールでは毎食のようにご飯とカレーを食べますが、スプーンやお箸は使いません。どうするかというと、右手だけでご飯と豆のスープ、それからカレーを混ぜて食べます。ですからネパール人の右手の指はカレーの色と、その香りがしみこんでいます。
食事の次はトイレです。外国人の使わないトイレにはトイレットペーパーはありません。その代わり、左手にバケツと空き缶があり、蛇口からは水がポタポタとバケツに落ちていて、きれいな水がたまっています。使い方を教えてもらうと、左手で空き缶にバケツの水をくみ、その水をおしりの後から流し、左手でおしりを洗い、残った水で左手を洗って、その水をトイレに流し、終了。ですから、ネパールやインドなどの人びとは、食事の時に左手は絶対に使いません。このように、食事やトイレに限らず、日常生活の色々な場面で右の手は良い手、左は悪い手と、左右の手を完全に使い分けているそうです。
このことを聞いて頭をよぎったのがネパールの人びとが合掌しながら「ナマステー」と挨拶をしている姿です。合掌とは左右の手をひとつに重ね合わせます。つまり、きれいな手と汚い手をひとつに重ね合わせているのが合掌です。ちょっと考えてみてください。あれほどキッチリと使い分けている左右の手を、なぜ、ひとつにくっつけてしまうのでしょうか?
そこでハッとささせられました。合掌とは、自分が思い込んでいる、きれい・汚い、良い・悪い、好き・嫌いと二つに分けているものが、ひとつに重ね合わさっている姿なのだと。つまり合掌は、私はあなたを分けへだてていないことを表現している姿に見えてきたのです。さらに「ナマステ」の「ナマス」とは「なむあみだぶつ」の「なむ」のことで、敬いのこころを意味し、「テ」は「あなた」を意味する言葉なのだそうです。ですから「ナマステ」は「あなたを敬います」という意味があります。
作り物でない本当に相手を敬うこころ、大切に思うこころは、きれい・汚い、良い・悪い、好き・嫌いと二つに分けているこころからは生まれないのです。そしてまた、いつでも、良い・悪い、好き・嫌いと二つに分けてしまう私たち。その何に対しても比べてしまうこころと眼(まなこ)が、他者(ひと)や自分を見つめたとき、他者や自分を傷つけてしまうことをネパール人の挨拶が教えてくれました。
テレビなどを通し、世の中をちょっと見ただけでも、テロ、対テロ、格差、環境破壊、原発…と、傷つけ合っている姿がたくさん目に飛び込んできます。そして、それらの多くが「正義」のため、他者を傷つけるのは仕方がないこと、または、必要なことだとして行われているようです。
このように人間は互いに傷つけ合って生きる存在であることを、不変の真理(阿弥陀)がこの上なく悲しんでいると、お釈迦さまはさとられました。その阿弥陀如来のこころを「大悲(だいひ)」と申します。
そのような「私」だからこそ「なむあみだぶつ」と手を合わせ、生活の中でお念仏を申していくのです。
写真/カラパタールから見たエベレスト・筆者撮影