真宗大谷派 三縁山

じょうあんじ

浄安寺

京都の東本願寺を本山とする
親鸞聖人ゆかりの寺

〒310-0034
 茨城県水戸市緑町1-13-22

℡ 029-221-5218

駐車場が大変わかりにくく、皆さまにはご不便をおかけいたします
境内に駐車されると事故等もありますので駐車場をご利用ください
詳しくは案内地図をご覧下さい

浄安寺 縁起

浄安寺は、阿弥陀仁左衛門慰宗信の四男、八田六良朝安が健保六年(1218)4月、28歳の時に稲田(茨城県笠間市)におられた親鸞聖人のもとを訪ね聞法随喜し、證安坊と名乗られました。弘安二年年(1279)二世の淨信が一宇を建立し、淨安寺と号したと伝わります。
現在地には、元禄五年(1693)7月29日、徳川光圀(水戸黄門)の命により移転したと伝えられています。

過去の法要を YouTube配信!

浄安寺YouTubeチャンネル 

 ↑こちらをクリック

                                                                             


今後の主な行事

報恩講 法要

とき:2022年 12月11日(土)午後1時~3時

内容:おつとめ と ご法話
講師:木名瀬勝氏(元本山教導・浄安寺衆徒)

ご参詣の才は、本堂内は感染対策として常時、換気をいたしますので、暖かな服装でお越しください。
なお、より多くの皆様にご参詣いただけるようYouTube生配信(インターネットの生中継)をいたします。
皆様のご参詣、ならびに ご視聴を心より お待ち申し上げます。

各行事 中止や延期がございます 

新型コロナウイルス感染拡大のニュースが連日報道されています。寺には特に重症化が危惧されているご高齢の方が多くお越しになることから、各行事を中止及び延期してまいりましたが、感染対策をとりながら、少しずつ再開してまいります。

【定期のつどいなど】

  • 「三縁の会(同朋の会)」 門信徒対象の学習会ですが、どなたでも参加いただけます

      法要月を除く毎月28日午後11時~ 
 ※内容は 正信偈のお勤め と 法話

  (座談会や茶話会はございません)
 感染対策
 ① 手指消毒液の設置  ② 本堂内の換気
 ③ イスを間隔を空けて設置  ④ マスク着用
  ※体調のすぐれない場合や、感染の疑われる症状のあ る方との接触がある場合はご参加をお控えください 



・28にち市 

  毎月28日 午後2時半~4時

お総菜や野菜、パン、お菓子、手芸品などの販売しています。
住職手作りの「季節の炊き込みごはん」を無償配布しています。
どうぞ、お気軽にお越しください!

    テキスト / 『教行信証講義』(梶原敬一氏講述)



〇 土のう袋プロジェクト  本堂内で被災地に送る土のう袋に絵を描くコーナーがあります



 皆様のご参詣をこころよりお待ちいたします

写真/浄安寺本堂の上棟(大正)

(住職雑記) 


 目に見えない新型コロナが 見せてくれたこと
 
 新型コロナウイルスが全世界で猛威を振るっている。目に見えない不安や、先の見えない不安におびえる中、海外では人種差別の問題に発展している。国内でも医療従事者などが差別を受けている。そして、誹謗中傷がそこかしこで起こり、人前で咳をすることも出来ない。
 私自身も感染者の多い地域を「キケンなトコロ」と見てしまっている。感染者がウイルスを広げないために有効だとされるマスクは、防衛のためのアイテムに感じてしまう。そして、連日の報道されている、社会的弱者といわれる方々が苦境に立たされ、また、様々な業種の方が職を失っている報道を目にし「犯罪や自死者が増えるだろう」と、自分は安全な所に居ると思い込みながら評論してしまう。さらに、自分以外を「バイ菌」のようにすら見えてしまう。震災や原発事故でもそうであったが、こうした私自身にある無智無明が偏見生み、格差や差別を肯定し、世の中をますます疲弊させてしまっている。

 一方、感染拡大防止の観点から、濃厚接触を避けるため様々な自粛など、日常生活にまで大きな制限が長期間にわたり強いられた。しかし、実際には濃厚接触を避けた生活は困難で、楽しみも減り、異質であって、こんな状況がいつまで続くのかと多くの方々も困惑し、しんどさを感じていると思う。

 そこで見えてきたことがある。普段の何気ない日常は、陰のように、名前も知らない、目を向けることもない不特定多数の「ひと」「もの」「環境」との濃厚なふれあいによって支えられ、成り立っていたことを。これを仏教では「縁」という。
 「外国へ行くと日本が見える」というように、濃厚なふれあいを避けなければならない今だからこそ、御陰様(名前も知らない人びとなどの支え)によって生かされてきた日常を見つめ直すチャンスにすることもできる。

 他者をゆるし、受容するこころがますます希薄になった現代(=私)。このパンデミックによって当たり前にして見ていなかった「縁」に目覚め、寛容の精神を回復させる契機にするには、この問題をどこに立って向き合い、そして、何をして行けば良いのだろうか。それを見つけ行動につなげることが出来れば、世の中の様々な疲弊を超える糸口になるのではないだろうか。(2020年3月)

『教行信証』に学ぶ輪読会 

仏教とは「楽しく生きる」「より良く生きる」ことではなく、老・病・死・孤独という苦悩の中で「私は何のために生まれてきたのか」「なぜ生きるのか」を追求してきた人類の思索の歴史です。
親鸞はその原点に戻って「人間の救いとは何か」をあきらかにし、その思想を「浄土真宗」と名付け、数々の聖教を撰述されました。
今、わたしたちは生きづらい時代を同じ問いを抱え、生きています。
そこで、梶原敬一氏講述『教行信証講義』を輪読しながら、浄土真宗の根本聖典である親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』に学んでいきます。
この輪読会は、会員制ではありませんので、自由にご参加ください。

テキスト 『教行信証講義』
梶原 敬一 氏 講述
Kindle電子書籍で購入可能
入手できない場合はご相談ください

2022年 3月15日(火)
 
毎月1回 午後2~5時 開催予定

Web会議システムMeetでもご参加いただけます。
どうぞ、お問い合わせください。
お申込はホームページ下記のメールでお願いいたします

発起人 / 木名瀬 勝、星野 暁

お寺の子ども会 じょうあんじキッズみんなの会

お寺の本堂や境内を遊び場に、色々なことにチャレンジします。 毎年行っている寺のチャリティーコンサートでは、バンド演奏も行っています。

お寺では様々な法要や行事がございます

報恩講、永代経、彼岸会、盂蘭盆会、年末年始のおつとめ、展覧会、イベント方おとき、同朋の会、輪読会などがございます。毎年5月にはプロのミュージシャン・須田宏美さんをお招きし、チャリティーコンサートが開かれ、境内では生ビールや焼きソバなどの販売があります。
各行事はどなた様でもご参詣いただけます。

公開講座「あんのん」 ~お寺でのんびり~

時間に追われ、デジタル機器にしばられ、息苦しさを感じる現代社会。そんな時代であってもお寺には静かな空気が流れています。デジタル世界から抜け出して、ゆったりと“こころ”と“からだ”のリズムを取り戻すひとときです。 ※新型ウイルス問題により次回未定

輪読会・公開講座などのお問合せ


Japan

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住職のプチ法話

(『浄安寺報』バックナンバーより)

 合掌って何だろう?

                                      

 私が初めて行った外国は、お釈迦様が生まれ、世界一高い山、エベレストのそびえるネパールです。その国を一人旅したとき色いろなことを考えさせられました。
 ネパール行きの飛行機に乗り込むと、機内には、すでにカレーのにおいが充満しています。その中でサリーという民族衣装を着た客室乗務員が合掌をして「ナマステー」と出迎えてくれました。合掌は仏さまへの礼拝としてしか考えていない私はドキッとしました。そして、ネパールに到着してからも沢山のカルチャーショックがありました。
 まず食事です。ネパールでは毎食のようにご飯とカレーを食べますが、スプーンやお箸は使いません。どうするかというと、右手だけでご飯と豆のスープ、それからカレーを混ぜて食べます。ですからネパール人の右手の指はカレーの色と、その香りがしみこんでいます。
 食事の次はトイレです。外国人の使わないトイレにはトイレットペーパーはありません。その代わり、左手にバケツと空き缶があり、蛇口からは水がポタポタとバケツに落ちていて、きれいな水がたまっています。使い方を教えてもらうと、左手で空き缶にバケツの水をくみ、その水をおしりの後から流し、左手でおしりを洗い、残った水で左手を洗って、その水をトイレに流し、終了。ですから、ネパールやインドなどの人びとは、食事の時に左手は絶対に使いません。このように、食事やトイレに限らず、日常生活の色々な場面で右の手は良い手、左は悪い手と、左右の手を完全に使い分けているそうです。
 このことを聞いて頭をよぎったのがネパールの人びとが合掌しながら「ナマステー」と挨拶をしている姿です。合掌とは左右の手をひとつに重ね合わせます。つまり、きれいな手と汚い手をひとつに重ね合わせているのが合掌です。ちょっと考えてみてください。あれほどキッチリと使い分けている左右の手を、なぜ、ひとつにくっつけてしまうのでしょうか?
 そこでハッとささせられました。合掌とは、自分が思い込んでいる、きれい・汚い、良い・悪い、好き・嫌いと二つに分けているものが、ひとつに重ね合わさっている姿なのだと。つまり合掌は、私はあなたを分けへだてていないことを表現している姿に見えてきたのです。さらに「ナマステ」の「ナマス」とは「なむあみだぶつ」の「なむ」のことで、敬いのこころを意味し、「テ」は「あなた」を意味する言葉なのだそうです。ですから「ナマステ」は「あなたを敬います」という意味があります。
 作り物でない本当に相手を敬うこころ、大切に思うこころは、きれい・汚い、良い・悪い、好き・嫌いと二つに分けているこころからは生まれないのです。そしてまた、いつでも、良い・悪い、好き・嫌いと二つに分けてしまう私たち。その何に対しても比べてしまうこころと眼(まなこ)が、他者(ひと)や自分を見つめたとき、他者や自分を傷つけてしまうことをネパール人の挨拶が教えてくれました。
 テレビなどを通し、世の中をちょっと見ただけでも、テロ、対テロ、格差、環境破壊、原発…と、傷つけ合っている姿がたくさん目に飛び込んできます。そして、それらの多くが「正義」のため、他者を傷つけるのは仕方がないこと、または、必要なことだとして行われているようです。
 このように人間は互いに傷つけ合って生きる存在であることを、不変の真理(阿弥陀)がこの上なく悲しんでいると、お釈迦さまはさとられました。その阿弥陀如来のこころを「大悲(だいひ)」と申します。
 そのような「私」だからこそ「なむあみだぶつ」と手を合わせ、生活の中でお念仏を申していくのです。

写真/カラパタールから見たエベレスト・筆者撮影


住職の長い自己紹介

 「寺に生まれて」

 私は浄安寺という寺に生まれた。言うまでもなく、自分が選んでここに生まれてきたわけではない。生まれてみたら、たまたま真宗大谷派を名告る寺院だったという事だ。
 物心が付いた頃には本堂で手を合わせるのが当然で、朝夕には本堂へお参りに行っていないと「ご飯を食べさせない」と言われる毎日だった。春夏はまだしも、冬ともなると火の気のなく天井の高い本堂は、氷点下になっている事もしばしば。氷のように冷え切った畳の上に素足のまま正座をし手を合わせる。もちろん寒くてたまらないから「なんだぶ、なんだぶ、アン」と、ものの数秒手を合わせてコタツの中に逃げ帰り食事にありついていた。めんどくさいと思っていたが、別に疑問に持つ事もなく当たり前、当然の事と思っていた。しかし、小学生ぐらいになってくると、だんだん寺に対して疑問を持つようになっていった。
 普通の家なら休日には遊園地や動物園など家族で遊びに出かける機会もあるだろうが、自分の家では日曜日になると何件もの法事があり、それどころではない。どこか連れて行ってとせがんでも、年に1回でも行けるかどうかだ。友達が家族で出かけてしまって遊んでくれる人がいない日曜には暇をもてあまし、父は何をやっているのか本堂へ覗きに行ったものだ。すると、住職である父は神妙な顔をした人びとの前に座り、袈裟を着てお経を読んでいる。その光景を見て、なんて不思議な事をやっているのかと思った。それは、父は死んだ人に向かってお経を読んでいるのかと勝手に思い込み、死んだ人がお経を聞いているはずはない。そんな意味のない事をなぜやっているのだろうかと頭をかしげながら見ていた。
 また、自分が学校に上がるようになると周りの友達からは、寺の子どもという事で珍しがられ、いじめのような冷やかされる時がしばしばあった。その中でも言われて最も辛く、言い返す事が出来なかったのは「人が死んだら金儲けが出来るから、お前は人が死ぬのがうれしいんだろう」という言葉だった。なるほど、自分の家は寺だから葬儀や法事のお布施でもって生活をしている。人の苦しみ、悲しみを飯の種にしているのは紛れもない事実だ。そんな事を子ども心に考え「お寺って変な所、僧侶ってイヤな仕事」と軽蔑の思いで見るようになっていった。そして、寺の住職だけにはなりたくないと思うようになった。
 私は4人兄弟であるが、上に2人の姉と下に1人の妹。つまり、男ひとりの長男である。肉食妻帯と言われるように、親鸞聖人は僧侶として初めて公に結婚生活を選び取られた。これがご縁となり浄土真宗の寺院では世襲制が伝統されてきた。また、長男が跡を継ぐのが当然の事となっていった。その為、周りの人びとからは跡継ぎとして見られもし、また、言われ続けた。それがイヤでイヤでたまらなかった。自分が軽蔑しているものにお前はなっていくのだと、周りの人びとに常日頃から言われ続けるのが苦痛でしかなかったのを今でもよく覚えている。
 そんな思いを内に秘めたまま高校生になった時、進学の事で両親ともめていた。両親は、私が寺の跡を継ぐものだと無疑問的に思い込んでいる。その為、高校卒業後は宗門の大学である京都の大谷大学への進学以外は頭に無い。当の本人は「お寺って変な所、僧侶ってイヤな仕事。僧侶だけにはなりたくない」と思っているのであるから、話し合いが平行線なのは言うまでもない。
 そんな頃、ここ浄安寺を会場に、若手の僧侶の学習会が泊まり掛けで行われ、20人ほどのお兄さんお姉さん方がやってきた。暇をもてあましていた私は、お兄さんお姉さん方に混ぜてもらった。学習会の内容は「靖国問題」についてで、高校生の私にはよく理解できないものであったが、みんなが相手をしてくれ、一緒に過ごした。その時、仲良くなったひとりのお兄さんが「お前は将来、この浄安寺の跡を継ぐのだろ」と言うので、ついつい、お寺って変な所だ、僧侶ってイヤな仕事だ。だから僧侶だけにはなりたくないと、僧侶であるお兄さんに向かって答えてしまった。すると、お兄さんはしばらく考え、こう答えてくれた。
 お前はお寺は何をする所で、僧侶は何をする者なのか知っているのか。その本当の意味を知らないで、ただ自分の思いだけを親に言っても説得させるのは難しい。お前がお寺が何の為にあり、僧侶は何をする者なのかをわかった上で、だから、お寺の跡は継ぎたくないと言えば、きっとわ両親も理解してくれるだろう。それに、住職になれる資格を取れば、親も、きっとお前の言葉に耳を傾けてくれるに違いない。そう言われ、何故か納得してしまった私は、大谷大学へ行くのは親の言うままになってしまうし、自分の事だから大学へ行ったら遊びほうけてしまう。そうしたら目的であるお寺は何の為にあり、僧侶は何をする者かわらずじまいになってしまいかねない。しかも、大学の4年間が途方に長いものに感じさえした。それならばと、お兄さん方に教えてもらった大谷専修学院という全寮制で、1年間で卒業が出来る学校への入学を思い立ち、願書を取り寄せた。つまり、お寺の跡を継がなくてすむ為に、仏教を学ぶ学校への入学を思い立ったのである。が、しかし、振り返ってみると、まんまと、そのお兄さんに騙されてしまったのだ。きっと、そのお兄さんは教えにふれさえすれば、私が抱いていた寺や僧侶に対する不信と軽蔑は、簡単に砕けてしまうのを見透かしていたのかもしれない。


 「僧侶の学校へ」

 私の入学した京都にある大谷専修学院という学校は、入学者のほとんどが在学中に住職になる事の出来る「大谷派教師資格」を取得する。一見すると、僧侶を育成する専門学校のような所である。授業内容は、当時、学院長の竹中智秀先生による全文筆記の講義を中心に、大学や本山などの講師による仏教学や真宗学をはじめ、お経の読み方や作法、書道に茶道、華道に音楽。さらに、外国人の牧師さんによる聖書を学ぶ授業まで多岐にわたる。生活は班ごとに分かれての共同生活で、朝起きると寮の掃除、学校へ着いたらまた掃除。その後、朝のお勤めがあり、それからやっと朝食、そして、授業。夕食後も週に2回、班ごとに行われるミーティングがある。さらに、食事作りと片付けの当番が回ってくる。特に食事作りは、卒業後、自主的にもう1年間残ることを選んだ別科生という数名の先輩と先生方が中心になって作っているが、その内容は質素で、ほめる事の難しいものが多かった。また、食器はプラスティック製で、これで1年間も食事をするのかと、器に箸がこすれる音を聞くたびに侘びしさが込み上げてきた。また、毎日スケジュールが目白押しの共同生活であるから、自分の都合で動ける時間は少なく、一人になれる時間などほとんど無い。しかも、先生方はその時の私には理解不能な言葉を朝から晩まで熱っぽく語り、熱っぽく接してくる。
 入学してまもなく、私はこの学校へ来たことを後悔した。ここもやはり、とても変な所で、変な人が沢山いると思ったからだ。特に別科性は自主的に、こんな変な所にもう一年間残るのを選んだのだから、変な人だとしか思えず、ここでも、また軽蔑の眼差しで他者を見ていた。怠け者の自分には、こういう所でもないと勉学に励むはずないと選んで入学したのであるが、結局、ここでの生活にも身が入らず、授業もまったく耳に入らなかった。ところが、そんな私がこの学校に延べ5年間も生活する事になったのだ。
 それは、ある時の事、恋をしたのがきっかけで“自分”という存在を、客観的に見る機会が訪れた。これまで自分を見る視点というものを、表面的な所でしか考えてなく、自分をそこそこいい人間だと思っていた。しかし、自分の内面が炙り出されてくると、とても人には顔向けできないような醜い姿が現れてきた。これまで自分は、まったく自分自身が見えていない、わかっていない事に気付かされた。つまり、初めて自分という存在を見ることにより悩んだのだ。すると不思議にも、これまでまったく聞こえてこなかった講義やお聖教の言葉が突然耳に入ってきた。今まで仏教というものは自分個人が生きる上で、あっても無くても大して関係のないものだと思っていた。その、お経や親鸞聖人の言葉などが、誰でもない私自身を語っている事実に気が付かされたのである。お経というものは、2500年も昔の人が抱えている問題や悩みに対してお釈迦様が語られたお説教である。『歎異抄』や『教行信証』も800年近く前に親鸞聖人が語られたものである。そんな、遙か昔に語られた言葉が、これだけ科学が進んだ今を生きる私を言い当てているのがとても不思議でならなかった。また、毎週行われる院長先生の全文筆記の講義ノートをもとに、班ごとに行われる夜のミーティングでは、それまで班のみんなで話し合いをしている内容がまったく理解できず、ただ、時間の過ぎるのを待っているだけで、一度も発言をする事はなかった。にもかかわらず、自分のノートに書いてある言葉が、紛れもなく自分自身の事であると気付かされると、講義で話された内容をより明確に、そして深く知りたいと思うようになり、積極的に発言するようになった。それは三学期も始まり、そろそろ卒業後の事を考えはじめる頃だった。この時になって初めて、学ぶべきものを学んでこなかった事に気付かされ、あれほど軽蔑していた別科生として学校に残るのを選んだのだ。
 それからの学びは、だめな自分、イヤな自分を変え、悩みを解消する為に聖教と真剣に向かいあおうと努力した。努力したと言うより、そうせずにはいられなかった。しかし、教えの言葉が聞こえて来るようになったからといっても、だめな自分が変わったり、悩みが解消する事は無い。院長先生から阿弥陀如来の大慈悲心とは「選ばず、嫌わず、見捨てず」だと教えられ、そういうものに自分もなりたいと思い、それを実行しようと試みても、他者を、そして自分自身をも選び、嫌い、見捨てている自分が明らかになるだけなのだ。その様に、かえって教えを聞けば聞くほど、どうしようもない自分が明らかにされていく一方で、ますます悩み、苦しみは深まっていった。苦しみを取り除きたい、救われたいと頑張るほど、かえって出口のない深い闇の中に自分を追い詰めているようなものだった。
 そんな事を繰り返している時に、院長先生から「親鸞聖人から直に聞いていったらいいんです」と教えられた。それを聞いた私は、800年も昔の人から直に聞くとは、いったいどういう事なのか理解できずにいたが、それから数年が過ぎた時、聖人は私に対して、すでに呼びかけられている気付かされた。それは、毎日お勤めをしている『正信偈』の最後の所にあった。「共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし」と。自分には親鸞聖人が、「愚禿(愚かで中途半端)な私と一緒に教えを聞いていきましょう」と、私に語りかけているように感じられた。これまでの学びは、自分を「良い人」に変える手段として聖教を見ていただけで、私に呼びかけている言葉とは聞いていなかったのだ。
 それまでは地獄を抜け出す事が救いだと思い込んでいたが、そうではなかった。静かに聖教に耳を傾けてみると「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄・第二章)と教えられていように、地獄こそ私の居場所であって、救われようのない私である事実に深く知らされ続けていく事が、どうしようもない私の歩んでいける唯一の道なのである。だからこそ親鸞聖人のお弟子方は、自らが歩む道を明らかにするために「十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」(同)と、命がけで訪ねて行かれたのだろう。そして、その命がけで道を訪ねてきた歴史が、今日まで繋がっているに違いない。


 「十余か国のさかいをこえて」

 学校に在籍していた時に、密かに企んでいた事があった。それは、『歎異抄』第二章に「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして」とあるが、現在、茨城から京都への道程は、特急列車と新幹線で4時間ほど。居眠りをしている間に着いてしまう。「身命をかえりみずして」という事を想像するのは難しい。ならば、これを実践してみようというものだ。
 学校を卒業した、その年の5月、リュックサックにテントや寝袋に食料、そして『歎異抄』の本などを詰め込み、あたかも『歎異抄』の中を旅するがごとく、京都、東本願寺の御真影をゴールに決めて水戸を出発した。もともと山登りを趣味としている自分は、そこそこ体力の自信はあった。が、しかしである。アスファルトを長距離歩くのは初めての経験だった。すぐに足の裏全体が水ぶくれになる。ところが、たった1日、土の上を歩と、その水ぶくれは不思議にも消えてしまう。歩きやすくする為に歩道にもアスファルト舗装をしたのだろうが、人間の足にはあまり優しくない事に驚いた。
 毎日45キロほど歩き、野宿が出来そうな場所を見つけると、そこにテントを張り、飯盒でご飯を炊き、二度と訪れる事のなさそうな場所を一夜の宿とした。毎日、毎日その繰り返しで退屈そうに思うかもしれないが、食料調達と寝場所探しに奔走したり、一歩一歩変わっていく景色に感動したりと退屈な時間はなかった。それどころか、毎日のように通りすがりの人が、大きなリュックを背負い、黒く日に焼けた私に声をかけ、食べ物などをくれるのだ。岡崎城のわきを歩いていた時にも不思議なことがあった。
 その日は天気が良く、照り返しの日射しに焼かれボーッとしながら歩いていた。すると、中年の女性が自転車に乗り、こちらに向かって歩道の真ん中を走ってくる。私もフラフラと歩道の真ん中で「おばさん、よけてよ」と心でつぶやきながら歩いていた。しかし、まったく女性は道を譲る気がないらしい。しまいに、私の目の前で自転車を止め、道をふさぐように止まった。私がムカッとしていると、その女性は自転車の荷台からイチゴを取り出し「お兄さん、イチゴ食べる」と言って差し出し、私がお礼を言う間もなく立ち去っていった。京都へ到着するまで同じような出来事が毎日のように続いた。これらの出会いによって気付かされた事がある。それは、遠い道のりを自分の力で歩いて来たつもりでいたが、実際は大勢の人びとの支えによって歩いてきたという事実を。
 そうして24日を費やし、やっと親鸞聖人の御真影の前に座る事が出来た。そして、『歎異抄』第二章を声に出して読んでみた。すると、これまで読んで感じたのとは違って聞こえてくる。それは、第二章の前半に「南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり」とあるが、命がけで茨城から京都までの長い道程を訪ねてきた人びとに対して、奈良や比叡山へ話を聞きに行ったらどうかというのは、なんて冷たい言葉だろうと思っていた。しかし、その時は冷たさを感じなかった。それどころか、厳しさの中に暖かさを感じた。それは、道を訪ねてきた人びとを全身で出迎えた親鸞聖人の姿を自然と想像していたからだ。そして「たずねきたらしめたまう御こころざし」とあるように、お弟子方の「こころざし」に、「御」と尊敬の意を添えている。そこには親鸞聖人とお弟子方の相互に尊敬があるのだろう。はじめに尊敬があるからこそ、言葉は人から人に伝わっていく力を宿し、それが、時代を超えて今を生きる私たちにまで届いて来るのではないだろうか。


 「お寺は敷居が高い」

 親鸞聖人ご在世の当時、真宗教団には寺院という形態はなかった。寺院化していくのは親鸞聖人の曽孫である覚如上人の時代と伝えられている。親鸞聖人は寺を作れなかったのか、もしくは、作らなかったのかというと、後者になる。にもかかわらず、現在は真宗寺院が全国各地にある。そして、私自身も親鸞聖人に流れをくむ寺の中で生活をしている。この矛盾を自分自身の事で考えると、寺院という形態を取ったから、親鸞聖人の教えにが今日まで伝えられてきたとも言え、たまたま、寺に生まれた事が縁となり、親鸞聖人に出あうことが出来た。しかし、寺というものには歴史的に見ても「権威」という影があり、特に浄土真宗寺院は世襲制であるために「特権意識」「貴族意識」のような差別心が生まれ、様々な弊害を作っているのであろう。
 だからなのであろう、「お寺は敷居が高い」という言葉を色々な所でよく耳にする。それを払拭し、その敷居を無くし、ご門徒をはじめ、多くの人びとに寺へ足を運んでもらおうと、聞法会をはじめ、書道やお花の教室を開いたり、お花見会やコンサートなど、様々な活動を行っている寺院生活者は多い。それら、いくつも考えられる活動の中で、自分が特に重要であると感じ、そして、やってみたいと思ったのがお寺の子ども会であった。
 しかし、いざ始めようと考えた時、「子どもたちは集まってくれるのか?」「そもそも自分にそんな力量はあるのか」「めんどくさい」などなど、色いろな不安が頭をよぎり、一歩足を踏み出せずにいた。そんな時、毎日お寺に子どもたちが集まる子ども会を運営しているご住職に「そんな事は考えずに、まず始めてしまえばいいんだよ」「大事なのは、一人しか子どもか来なくても続けていくこと。そうすれば、子どもたちの方が場所をつくってくれるから」「これが成功だって、自分のイメージをつくらない方がいいよ」と、アドバイスをもらった。そして、先の事を心配をするのはやめ、まずは夏休みに一泊二日の子ども会を軽い気持ちで始めた。
 はじめの年に集まったのは5人。内容は本堂と境内のみの活動で、本堂では遊んだり、お勤めをしたり、眠ったり。境内ではご飯を作ったり、食べたりと、何か特別な事をするのではなく、お勤め以外は普段の生活で、当たり前の事を人任せにしないで、そして、少しだけ丁寧にやってみようというぐらいだ。ただ、ひとつだけ、日常と違う場所にしようと心がけている事がある。それは、学校や家庭など、あらゆる所で順位や評価のある中で生活を強いられている。そして、それが当たり前となり、慣れきってしまい疑問を持つことすらない。そのような中で、このお寺の子ども会は、順位を付けたり評価されることのない「新しい場所」を、子どもたちと一緒に作ることだ。


      歴史の参加者になる
      
 この「新しい場所」というものに答えや完成した形はないと思う。しかし、その「新しい場所」作りが本当の意味で寺の高い敷居を取り払う事になるのだろう。そして、阿弥陀如来の慈悲の心を「選ばず、嫌わず、見捨てず」と教えられたように、評価され、嫌われ、排除される事のない場所というものが、阿弥陀如来の在す場所であり、他者や自分自身をも、評価し、嫌い、排除している我が身に気付かされ、それを超えていく道を学んでいく学びの場を模索し続けるのが、親鸞聖人に流れをくむ寺に身を置く者の仕事であると思っている。
 それにしても何故、「お寺って変な所、僧侶ってイヤな仕事。僧侶だけにはなりたくない」と思っていた私が、寺というものを、そして僧侶というものを、そのように頂くようになったのか。そこには、親鸞聖人の念仏の教えが時代を超え、今日の私たちにまで脈々と伝えられ来たからであり、それは聖人の言葉に聞き、そこに生きていかれた名も無き人びとの、途切れる事のない歴史があったからである。そして、この歴史に参加していく人びとが、これからも誕生し続けていく事を“寺”という場所から願われているのであろう。